境内散策

本堂

本尊釈迦如来
脇侍文殊菩薩・普賢菩薩
祖師壇達磨大師
土地壇招宝七郎大権修理菩薩
位牌壇僧形文殊菩薩

金剛組の設計施工で二〇〇二[平成十四]
年に竣工し、翌年春に落慶法要が営まれました。一階が光明殿(納骨堂)、二階が本堂で、「醫王山・東光寺」の山号・寺号額は曹洞宗管長・大本山総持寺貫首板橋興宗猊下の御親筆。

光明殿(納骨堂)

本尊宝冠阿弥陀如来
脇侍観音菩薩・勢至菩薩

光明殿は「大切な人」が永遠に生き続ける場所であり、御本尊の宝冠阿弥陀如来様のもとで、故人の永遠のやすらぎと共に、今を生きる人々に安心を与える温もりと感謝の心が息づく霊廟となっています。墓地に代わるご遺骨のやすらぎの場として清潔で荘厳な雰囲気を持ち、不燃性素材を用いた恒久的な納骨壇は先祖代々の供養としてだけではなく、永代供養として後継者のいない方、お一人の方、ご友人同士で安置されたい方でも使用できます。

師堂(瑠璃光殿)(土浦市指定文化財)

本尊薬師如来
脇侍日光菩薩・月光菩薩
守護神十二神将

 一六九一[元禄四]年の大火後、焼失を免れた薬師如来立像は仮の草堂に安置されていました。これを深く嘆かれた三世蘭光州芳大和尚は八年間の托鉢修行を続け、その功徳によって善男善女の浄財が寄せられ、一七三九[元文四]年に竣工しました。
 小壁には建物の方位に合わせて欅の板に十二支の透かし彫があり、四方隅の唐獅子、妻虹梁天邪鬼の彫刻とともに、この建物の特徴となっています。

薬師堂彫刻 天邪鬼

薬師堂彫刻 十二支 午

薬師堂彫刻 唐獅子

はっくけん そらであめふる やなぎかな
八九間 空傳雨降 柳可奈

芭蕉を慕う俳人内田野帆とその門人たちが、一八五二[嘉永五]年十月十二日(芭蕉翁百五十九年忌日当日)に建立しました。碑陰には、世話人八名と門人九名の雅号も刻まれています。野帆は松尾芭蕉の流れを汲む俳人で、天保時代、土浦周辺の俳諧の中心的存在でした。

うりなすも ともじょうぶつ せがきだな
宇理茄子毛 共成佛や 施餓鬼棚

野帆の門人たちの代表格であった四山は、この句を野帆の追善句として詠みました。

こえにみを もたせあが ひばりかな
聲耳身越 持勢て揚る 雲雀哉

野帆は一八五五[安政二]年三月二二日に 没しましたが、その追善供養のために、同 年十月十二日、芭蕉翁の命日にあわせて、門人たち二十六名が建立しました。この句は「土浦八景」句と並び、野帆の代表句となっています。

辯才天堂

本尊辯才天

創建年代は不明ですが、堂前の一対の石燈篭には
「奉寄進 辯才天石燈篭 享保七壬寅歳五月」
と刻まれています。享保七年は一七二二年で、薬師堂再建の十七年前に当たります。現在のお堂は、市内大手町大工棟梁中村三郎の手によって、一九八六[昭和六一]年に竣工しました。

乃木壽子刀自霊堂(のぎひさことじれいどう)

(刀自=年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称。名前の下に付けて敬称としても用いる)
乃木壽子刀自霊堂は、乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将の母堂、乃木壽子刀自を祀る霊堂です。乃木壽 子刀自の父長谷川金太夫(乃木希典大将の外 祖父に当たります)は土浦藩士であり、長谷 川家の古い墓が東光寺にあり、長谷川金太夫 の墓石も残っています。霊堂は御影石・鉄筋コンクリート、六角方形屋根・銅板葺きの六角堂 で、一九三七[昭和十二]十二月に竣工しました。

稲荷堂(和光稲荷)

本尊吒枳尼天(吒枳尼尊天・吒枳尼眞天)
合祀愛宕権現(将軍地蔵・勝軍地蔵)

二〇一六[平成二十八]年、寺族松井和子(法名 浄雲院和顔霊光大師)の寄進により再建。設計施工は金剛組。

坂東・西国・秩父百観音奉拝碑

一八一四[文化十一]年四月に土浦大町の田上金七・青木源七の二名が、百観音巡拝満願記念として建立しました。

〒300-0044
茨城県土浦市大手町3−14
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TEL:029-824-7822